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【温故新地】vol.01 芸妓プライド(前編)

最終更新: 2018年9月7日


温故新地とは

 北新地のレジェンドから古き時代を学ぶ「温故」と、これからの北新地についてどう活かしていくかを考える「新地」の二本立てで交際されるトークセッション型の講演会。

 レジェンドや、普段あまり交流のない同世代の方、同じ職種の方々、まちとのつながりが生まれるきっかけの場としていきたいと思います。


ゲスト「西川梅十三さん」

 芸妓さんと聞くと京都を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。かつてはこの北新地も「北の新地」と呼ばれる芸妓さんのまちでした。そんな花街(かがい)を芸妓として生きた西川梅十三さんをゲストに迎え、「温故新地」が幕を開けました。




●花街のはじまり

 「北の新地」は宝永元年に遊郭「堂島新地」としてはじまりました。芸妓さんのまちになったのは明治の頃から。米相場の取引関係の宴会などで芸妓さんが間に入り、商談がうまくいくように頑張られていたという事で、場所がだんだんと北上して、曾根崎新地と合併し、大正には北の新地と呼ばれるようになったそうです。


芸妓時代の梅十三さん



梅十三さん

「大阪の四花街は、

「色の新町、浮気な南、野暮な堀江に実の北」と歌われていて、北の新地はちょっと遊ぶといった雰囲気ではありませんでしたなぁ。

むつかしいお客さんがすごく多くて、障子の開け方ひとつで怒られることもあって。ただ、いっぺんごひいきになるとずっと長くごひいきにしてくれはりました。」







●置屋とお茶屋の関係

 置屋(おきや)さんとは、芸妓さんが所属している芸能事務所のようなもの。現在は平田席と大西席の2つだけ残っていて、梅十三さんは平田席に所属されています。

 お茶屋さんは、お客さんと置屋さんをつなぐ場所で、お客さんが芸妓さんを呼びたいときに依頼します。戦後になるとお茶屋さんで宴会をするようにもなりましたが、戦前は一次会として吉兆や花外楼などの料亭でお食事をした後、二次会でお茶屋さんに帰ってお歌や三味線などのお遊びが始まるという文化だったそうです。


梅十三さん

「当時お茶屋さんは新地本通りから永楽町通り、舟大工町にも何十軒と並んでいて、平屋の木造の家が並んでる姿はとっても風情がありました。

お座敷に呼んでもらえるかどうかを決めているのは、女将さんではなく実は仲居さん。仲居さんのごひいきにしてるお客様にちゃんとしなければ、どんなにいじめられたか…一番怖かったのは仲居さんでした。」


お茶屋の女将さんの集まり


●夜に路上で踊りの練習

 踊りの舞台が決まったら、出演されるお姉さんたちがいつ出られなくなってもいいように、どの踊り方でも踊れるように備えていて、夜の12時を過ぎたら新地本通り(なんと外!)で5~6人集まって踊っていたそうです。あんまり遅くまで頑張っていると、お茶屋さんの女将さんから「はよ帰んなはれー!」と怒られることも。

 朝は先輩よりも早くお稽古場に向かって、三味線の準備もしたり、お師匠さんが東京から来られる時は朝の7時頃に荷物持ちのために寝ずにお迎えに上がるなど、華やかなイメージとは全く違うストイックな日々を過ごされていたそうです。


梅十三さん

「やっぱり舞台に出たいですし、あのお姉さん倒れへんかなあと思いながら、練習してました。花柳界はどこも厳しかったです。今みたいに、ああしんど。ほな休みなはれ。ではありませんでした。」



●お客さんを助けつつ、育てられつつ

 部屋の入り方から踊りの良しあしも、みんなお客さん仕込み。

「その格好ええで」「今日の踊り、あそこ間違うてたな。稽古しいや。」

ちゃんと踊りの教養のあるお客さんもいれば、分からないけど知ったかぶりをして、困った若い芸妓さんの反応をみて楽しむお客さんもいたり。それもひとつのお遊びだったそうです。


梅十三さん

「お客さんの中で一番怖かったのは、株屋さんの社長さん。会話の中で「下がる」「降りる」という言葉を使うととても怒られるので、今日は株屋さんですと言われたら、あーこわぁって言いながらお座敷入りました。」



 お客さんに教わるだけでなく、お客さんを助ける場面もあったそうです。

 下座のお客さんが上司から芸をしてみろと言われたら、踊りの手伝いをしてあげたり、歌えと言われたら口パクに合わせて芸妓さんが歌ってあげたり。お茶屋さんで二次会を始める時、楽しい芸が自分でできないお客さんだと、代ってあげて楽しい流れをつくるのが芸妓さんの役目だったそうです。


梅十三さん

「芸妓としてこれだけは、と教わっていたことは二つあります。一つはお客さんに逆らわないこと。例え白い石をお客さんが黒やと言えば、黒でんなあと言わないけまへん。もう一つはお客さんがお手洗いに行かれたら、必ず着いていって入口の前でおしゃべりをすること。中で倒れはらへんように心配する意味と、里心がついて帰るきっかけをつくらないようにするというプロの仕事としての意味がありました。」




●年中行事

・お正月 あいさつ回り

 お正月から忙しく動いていた北新地。元旦は朝から歩いて北浜の取引所や会社にもご挨拶回りに行っていて、北新地に帰ってくると、仕事を終えた人たちが北新地に集まって宴会をされていたそうです。お茶屋さんのお座敷に上がらせてもらってお祝いの舞を踊らせてもらったらお年玉がもらえる華やかな1日だったとか。

・お宅行き

 いい芸妓さんになると、お正月でもお客さんのお宅へご挨拶に伺っていたそうです。奥さまは玄関先で出迎えてくれたら、それ以降は絶対に宴会の席には顔を出されません。家族ぐるみの関係だったようですが、宴会のお席に奥さまが同席されるようになったのは外人さんがお客さんとして来られるようになってから。最近では同席された奥さまの方がお話上手なこともあるそうです。

・2月のお水汲み祭り

 江戸のお祭りの時によく芸妓衆がしていた手古舞という衣装に身を包んでお祭りに参加していたそう。

・天神祭【戦後】

 陸渡御のお供として八人の芸妓さんも一緒に行列した八処女行列。老松町から新地本通りを通って桜橋を超えて船渡御まで続いていたそうです。途中にはおみこしの方に一服してもらうようなお振る舞いもあったそう。人力車を引いてくれる人が続かなかったので、オープンカーに変わりましたが、それもうまく続かず無くなってしまいました。


八処女(やおとめ)行列

・盆踊り【戦後~車が通るまで】

 今みたいに車もたくさん入ってこないので、河庄筋の路上で盆踊りをされていたそうです。2~3年くらいで無くなってしまいましたが、仮装もしていて楽しかったとのこと。タクシーは都島と相互タクシーだけ、ほかは自家用車だけしか入ってなかったので路上でもできたのかもしれません。


梅十三さん

「お祭りは活気があってとても良かったので、また復活してほしいですね。」




●芸妓のまち北新地の歴史

静かな時間が流れるまちだった北の新地。現在と比べてみると、まちの雰囲気から、お客さん、働く人、すべて梅十三さんには驚くことばかりだそうです。


梅十三さん

「今の北新地は変わりましたねぇ・・・。一番は、上見てびっくりします。ネオンがビカビカとたくさんあって。クラブのママさんも外に出てお客さんを待つなんてあらしまへんでしたねぇ。看板なんてなかったですし、そんなんあったらお客さんが「こんなんなんで置いたあんねん、他所持って行っといたろ」て隠してはりました。

 新内流しという三味線の弾き語りもありました。三味線を弾きながら歩いている2人組がいたら、お店の中からお客さんがちょっと声をかけて、そのお二人はお店には上がらんと、外で三味線弾いて唄を唄わはる。お客さんは窓に寄りかかりながら、うんうんと耳を傾けて聞いてはって。情緒がありましたねぇ。


 あっと思ったのは万博でした。新幹線が通ったから、東京から来られるお客さんは泊まらんと、その日に帰られるようになって、宴会が早う終わるようになってしまいました。なんや特急みたいな宴会でした。万博が終わった頃から、奥さんもお座敷に一緒に来はるようになりましたし、これは色々と変わるなぁと感じました。


 芸妓さんももう数が少のうなってますけど、お手伝いできることはしてくれると思いますし、若い人たちの力で、「さすが北の新地やなあ」って言われるまちにしてほしいです。

紀元節を祝う北の新地(1934年2月11日)




後編「新地」へつづく。

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